昭和44年9月10日 月次祭                 中村良一



皆さんも、お祭りを頂かれながら、お気付きになられた方もあるかと思うんですけれども、えー、今日のお供え、神饌のものが、少し、何時もと変わっとったでしょう。今日は、私が、あの神饌をさせて頂いたんです。久しぶりですから、こうしたがええ、こうすると、おー、良いと思ってもです、なかなか自分の思うように出来ないもんです。だから、口上だけは、なかなかよく言いますけれども、自分が、手ずからという事になりますと、なかなか難しい。今日は、久富先生が、ちょっと、本処理の間、他に御用があっておりましたもんですから、結局私が、御用さしてもらった。その事を、私、神様に、只今から神饌の御用をさして頂きますからという事を、お願いさして頂いて取り掛からせていただいたのでございますけれども、なかなか思うようにいきません。丁度、そのお届けをさせて頂いておりましたら、丁度、こう、亀甲型にね、亀甲型に盛り付けをしておるところを頂きました。亀甲型というのは、えー、亀の甲形という意味なんですね。あの、神饌物というのは、えー、どこから見ても、どこから見ても、おー、例えば、立派だなというように、いー、しなければならんのでございます。裏表があってはならない。正面はご信者さんが見る。後ろからは神様がご覧になる。ま、勿論、神様のことですから、前から横から縦から、ね。ご覧になっとるのでございましょうけれども、そういう心掛けが大事だと言われております。素人が致しますと、もう、正面のほう、見えるとこだけは、こう、綺麗にするけれども、裏のほうはごまかしてある。そういう盛り付けではいけない。ね。亀甲型に、こうやって入れますと、ね。どこから見ても、それが見えるのである。ですから、今日の、あの、特に、缶詰でも、お野菜でも、それから、乾物、ね。それから果物なんかは、皆さんのほうからご覧になっても、全部が見えるでしょう。それから、裏から見ても、はあ、何が盛ってあるという事が、全部分かるように盛ってあります。は、なかなか苦心しました。野菜もそうです。野菜なんか盛った時は素晴らしかったんですよ。あの、芋の葉が、まあだ瑞々しい、生き生きとこう三本出てましてね、丁度お花を入れるようなつもりで入れました。それでいて、やはりどこから見ても、まあ、大体こうですね。で、私は、末永さんが助手を致しておりましたからね。こういう風に、大体は入れなきゃならんのだけれど、芋の向き一つでも、こういう風にしなきゃ、なかなかそういう風に、自分が思うように止まらない。ところが、段々、稽古をしておると、自分の思うように止まるようになるです。これはお花を盛った方が一番です。この枝ぶりはこうだから、こうせんならんと思うても、なかなかそのように止まらない。段々、熟練してまいりますと、自分の思うようにその、花が、枝が止められるようになりますように、やっぱ、神饌でも同じことです。最近、久富先生やら、とても上手になられました。もう、口上の、おー、言えんくらいに、けれども、私が見ると、まだまだです。ですから、口上だけは言うわけです。そるきん、口上言いよるきん、ほんなら、そげん言うなら先生あーたしなさいち言うと、実際言うと出来ませんのです。けれども、実は、ここは、こういう風にしようと思うけども、せなならんのだけれども、なかなかそうは止まらんのだと、と言うて、末永さんに説明だけはさして頂いた。けれども、どこから見ても、ほんなら、あー、大して良かなかばってん、まあ、どっから見ても同じに見えるというか。いわば、どっから見ても、おー、影がないように、裏がないように盛らせて頂いた。そういうようなでしたが、お気付きになったでしょうか。
只今、今日は、十日の月次祭に、どんなことを皆さんにお話聞いて頂こうかと、只今、お礼させて頂いとりましたら、丁度ね、えー、真ん中あたりに、先ほどまでは、お祭りのときまでは、善導寺の久保山さんが親子三人並んでおりました、真ん中へん。ね。こちらに、純ちゃんと、米子ちゃんと、お母さんと三人でおり、お祓いを、ね。あの、シデを持って、こう、お祓いをなさいます先生が。そん時には皆が、ほんとに良くいたしております。私は、ちょっと見るともなしに、こちらを見せて頂いたら、もう、純ちゃんと米子ちゃんが、もう、ずーっと平伏しているんです。ね。そこんところへ、こう、お祓いが。もう、ちゃんと分かってるんです。お月次祭が、どういうような順序であり、お祓いの時には、どうしとかなきゃならんという事を、子供ながらも知ってるんです。有難いなあと私は、そん時心がそう止めておったら、只今、皆さんに今日は、どのようなお話を聞いて頂こうかと思うたら、その事の情景をまた、ありありと頂いた。ははー、今日はこれだなと思わせてもらう。今日、私が、神饌をさせて頂くときに、神様に、ね。お粗末御無礼のないように、お願いさせて頂いたら、亀甲型に、いわば盛れというように、お知らせを頂いて、言うならば、どちらから見ても、眺めても、神饌物として可笑しくないように盛らなきゃ。表のほうだけは、良かつを出して、裏んほうにはもう、安かつの、傷の入ったごたるとば向けとくというようなことじゃいけん。どちらから見ても立派に盛らせて頂くということを、おー、焦点にして、今日の神饌をさせて頂きました。その事と同時に、只今頂きます、ね。誰でもお祓いを受ける時には、そら、子供でも、信心させて頂いておると、平伏を、はーっと、平伏をして受けなければならないことが分かっておるように、私共が、お祓いを受けるときには、平伏を致しますけれども、それが、お取り払いという事になったりしますと、もう、とにかく、これだけ信心するのにと言うて、その神様に、意気込みますようなものが、お互いの内容にある。ね。信心さして頂いておりましても、やっぱ、様々なことがあるんです。雨もありゃ、嵐もある。災難にも合う。それをお取り払いを頂いて有難しと、教祖は教えておられます。めぐりのお取り払い、やれいたや今みかげをよという心になれよと仰っておられます。ね。例えば、こういう災難にあって、これほど信心するのにというような時には、もう、信心は留まっておる。これはまあだ、私の信心が足りぬからだと、信心を進めていけば、そこから、そこからおかげが受けられると仰られておられる。ね。ですから、どうしてこのような事がではなくてです。神様、お取り払いを頂いて有り難うございますと、お祓いを受けさせて頂きますときにです。平身低頭して、その事が受けられるような信心を、させて頂かなければならないという事になるのでございます。ね。どうでしょうかね。皆さんも、お祓いを受ける時には、はーっと、平身低頭なさいますもん。けれども、お月次祭に間に合わない人は、やはりもう、お祓いの済んだ時じゃけんで、まあだ、お祓いちゃどげなもんか知らん人があるかも知れません。けども、お祓いというのは、そういう大変な意味があるのです。私共の上に、知らず知らずのお粗末御無礼が出来ておる。それを、いわば、祓いの神風を、の、おー、シデの、いわば、さやぎのさやさやに、ね。お取り払いを、吹き祓いを頂くのでございます。それが、生活の上になってまいりますと、痛いこともあったり、情けないこともあったり、腹の立ったりすることもあるのでございます。だから、やれ痛やであります。やれ歯がゆい、情けないなのでありますけれども、神様、今こそ、お取り払いを頂いております今こそ、お祓いを受けておるときでありますという頂き方の中にです。私共が、段々清めさせて頂く事の出来れるおかげが受けられるのでございます。いつの間にか腹が立たんようになった。ね。何時の間に、自分がこのように変わってきたであろうかと、自分で自分の心が拝みたいほどしに、段々変わっていく自分に気が付きます。信心をさせて頂いておると、段々、そうならなければ駄目なのです。ね。そこで、今朝のご理解の中にもございましたように、ね。苦しいから、お参りをするのではいけない。そりゃ、苦しいから、御神縁を頂いて、お参りをして、お伺いでもして見ろう、お願いでもして見ろうというので、お参りをするのでございますけれども、そこから、段々信心が分かって参るようになりますと、信心の教えを頂く事が有難い。その教えを行ずる事は、また有難い。ね。その教えを頂く事が有難い、行ずる事が有難い、そこに、いつの間にか、自分が、変わらせて頂いておる自分に気が付くようになる。そこからは、願いもせんのに、思いもせんのに、夢にも思わなかったようなおかげが展開してくる。ね。とにかく、家にじっとしてはおられない。眠い寒いは言うておられない。暑いは言うておられないという事になる。その、有難いが、お参りをさせて頂くという事にならなければならない。ね。ところが、段々、信心をさせて頂いておりますと、これは信心に限らず、何でもですけれども、ね。参らにゃ気色の悪かごつなってくる。参らにゃ気持ちが悪い。ね。これはもう、すでに、信心がですね、まあ、ある意味合いで、えー、信心が、毒している姿であります。ね。そら、おかげを頂いておりますけれども、ね。お参りせで気持ちが悪いと言ったような信心じゃ駄目なんですけれども、もう、何十年信心を致しておりますという人達がです。大概、そんな人が多いんです。もう、朝参りを何十年続けております。参らなきゃ気持ちの悪かけん、参りよります。まあ、だって、それでもおかげを受けておりますけれども、有難いからお参りが出来とる。いや、その、有難いというのがもう、去年よりも今年というように、育てられていく。ね。例えていうなら、初めの間は、百円しかお供えが出来なかったのが、ね。五百円づつもお供えが出来るようになった。千円づつもお供えが出来るようになった。ね。しかも、それが、有難く楽に出来るようになったというように、それが、育っていくから楽しみなのですよ、信心は。ね。お参りすりゃ、もう百円お初穂包まんならんというような事じゃないのです。それが、何時のましに、お賽銭をちゃらんと十円入れんならん。お初穂百円包まんならん。もうそれが、言うならば、癖のようになってしまう。いわゆる、それを、まあ、今の言葉で言うと、マンネリになってしまうわけです。ね。信心が、そのようにね、マンネリになったら、いわば、これは、あー、信心のね、まあ、なるほど、それでもおかげは下さいますよ。下さいますけれども、それが、力やら徳にはならないと、私は思うです。日々お参りをさせて頂いてです。日々と参りたいけれども、せめて、去年よりも今年というように、確かにその内容というものが有難くなっておる。ね。だから、有難いから、お参りもさせて頂いておる。丁度、今晩のようなお参りでなからにゃいかんです。お月次祭といや、もう、殆どがお礼参拝でございますよね。月のうち四回、いわば、お祭りがこうして奉仕されますが、日頃は御無礼しとるけれども、今日はお礼をさせて頂こうと、例えば、あー、自分の心を、様々な形に現してでも、有難いおかげを月次祭から月次祭まで、このようにおかげを頂いてまいりましたという事を、お礼参り、お礼のお届けを、このようにしてさせて頂く。それがこのお月次祭と、まあ、だけではありませんけれども、そのように、段々おかげを頂いてくる。ね。今日はお参りしてお願いせんならん。なるほど、ありますよ。ありますけれども、その中心になるものは、お礼参拝。ね。その、お礼参拝が、本当に自分でもです。御礼がです、言わなければおられないという有難い心。有難いから、お参りをさせて頂いておる。有難いから、朝参りさせて頂いておるという信心。ほんに、こげん眠か思いせんならん。こげな寒い、暑い思いをしなければならん。何時まで参らんならんじゃろかと。
先ほど、前講を久しぶりで清さんがお話をなさいましたから、皆さんも、お聞きになったことと思います。なるほど、何時聞いても素晴らしい。ね。素晴らしい話をされる。勿論、内容に、その素晴らしいものを持っておる。ところが、あまりに素晴らしいから、皆さんには、その、聞き取りが出来なかったじゃなかろうかと、私はこっから心配した。はー、清さん。やはり、さすがに清さん。素晴らしいことを言うておるなと思うて聞きましたけれども、皆さんには、分かられなかった人が随分多いかったと思います。ね。それを、要約いたしますとね。清さんは、こういう事を言われたんだと、私は思うのです。御道の信心はね、生神への道だと。生神を目指すのだと。生神金光、此の方のことを、生神、生神と言うが、ね。此の方ばかりが生神ではない。みんなも、このようなおかげが受けられるんだと、教えておられますから、私共も、日々は、その生神を目指しての信心であるということ。を、最近は気付かせて頂いたというような意味の、私はお話であったと思うのです。ね。これはもう、おかげを頂くということだけなら、その、お話の中にも言っておりましたように、合楽から疎遠になった。丁度、御造営前後のころから、もう、お参りしてこんようになった。月に一回のお参りもせんようになった。ね。ところが、おまいりせんでも、おかげを受ける道を体得した。勿論、合楽の先生の信心によってと、ご本人も言われますように、もう、先生の信心を頂いて、ここんところを体得したんだもん。もう、何を他に体得しようか。御商売の繁盛なら、お金に不自由しないですむことなら、必ずしも、みんなのように日参り、夜参りしなくってもよろしいんだ。ここさへ頂いとけば、ここさへ外さなければと言うものを体得されたんです。ね。それを、例えば、清さんの言葉を借りるとです。腹かいちゃ馬鹿らしかということなんです。はっはは、一遍、腹かきゃ千円するごつそれぐらいまで、もう、一遍、腹かいたら、取り返しのつかないような、損だというような事を思う、心の側から、それを把握しておられる。だから、人が、顔にかかるようなことやら、腹を立てるようなことを言うと、心のなかでは、しれしれ笑いよる。はー、今度私は、どげなおかげ頂くじゃろかのほうが楽しいわけなんです。まるきりもう、信心の変態だと、私は、まあ申しました。その当時。素晴らしい事ですと、ね。どんなに腹が立つようなときでも、腹が立たんで、腹の中でしれしれ笑らっておれれるということ、素晴らしい事なんです。そういう素晴らしいことを、体得したんだから、もう、合楽にはお参りはせんでも良いと言うておった清さんが、この五日の、壮年部会に、最近は、壮年部会にずっと出て見えられます。はあー、そら清さん、あんたの信心はもう、また飛躍した。もう、飛躍のそれは姿だと、言うて私は話を聞きながら、その時に申しましたことでございすけれども。もう、それだけではいけないと。腹を立てんという事だけじゃいけん。ね。いわゆる、有り難うなる稽古をせにゃいけんという事を、この頃気付かせて頂いておるという意味のことを言うておられます。ね。清さんの姉さんに、大変、素晴らしい、頭のいい人がおられます。子供の時には、やはり、御道の信心をしておったのですけれども、金光教の信心に飽き足らなくなった。そして、キリスト教に、いわゆる、の信心を受け、洗礼まで受けた。もう、それこそ先生並みである。一遍、椛目の時代に見えられて、私にもう、こんこんとして天地の、いわば、神の愛というものを私に説かれた、ほどしに熱心なんです。私は、黙って聞かせて頂いておって、その事を、それでもこう、こうこうですという話をさせて頂いたら、ね。これはもう、神の愛だけではない、金光様のご信心とはと、まあ、悟られたのじゃなかろうか。いや、この人には、幾らお導きをしても、話をしても駄目だと思われたのかもしれません。もう、それっきり、口をつぐんでお話をされませんでしたほどしの、偉い方なんです、ある意味合いにおいては。ね。ところがこの、盆の時分に帰って見えられた。そしてね、清さんに、もう、それっこそ、腹の底から打ち明け話をされた。もう私は、もう、本当言うたら、もう、この世にはおられん程の苦しいことに直面しておる。今の、カトリックでは私を救うてくれる力はない。カトリックそのものは、立派であっても、そのカトリックによって、私を救うてくれる道は、もうないと言うて訴えられた。もう、それこそ、血を吐くような思いで、弟の清さんに話された。非常にプライドの高い人。ね。そのプライドの高いお姉さんが、いわゆる、弟さんに、あんた達の金光様の信心やら、間違うとると言うておった人がです。清さん、あんたの生き方を教えてくれと言うて頼まれた。はっは、現在のカトリックでは、私を救う力もないと。あんた達が、清さん、あんた達の兄弟、あんた達の家庭の姿というものを見ておるとです。とにかく、具合ようやっておる、それがですね、そのこつを教えてくれと言われた。その時に、清さんが、実感されたことはね、初めて、姉を姉らしゅう思いましたち言われました、お話の中で。どんなに素晴らしい姉でも、親でも兄弟でもですね。こう、何とはなしにですね、水っぽい親子であったり、兄弟であったりする。ね。赤裸々に、自分の内容のことまでは、打ち明けられない。赤裸々じゃない。初めて姉に対して、肉親の情というものが感じられたと言うておられます。そして、姉さん、教えようと言うて教えられるとじゃないから、ここにおる間、私のいき方、あり方を見ときなさいと言うて、それからのタイミングの素晴らしさには、はなはだ驚いてしまわれたという話を、この頃しておられました。ね。三日間こちらに、四日間かおられました。その間のその、タイミングの素晴らしさに驚かれた。ほんなら、そういう素晴らしいことがです、どこから生まれてきておるかと。金光様のご信心によるものである。いわゆる、清さんの信心によるものである。ね。それ、素晴らしい。ところが、もう、その素晴らしい、その事だけではね。今の清さんは、もう、いけないと言うておられます。ね。先ほども、お話の中に言うておられますよ。ね。親先生の信心から、離れたときに、私は、もう、これでよかった、これで楽になったと思うた。けれども、先生の信心の中、先はお徳の中とこう言うておられますね。親先生が頂いておられるお徳の中で、信心の稽古をさせて頂くということがです。皆さんは、有難いんだという意味の事を言うておられますでしょう。ね。という事は、どういうような意味のことであろうかと。ね。先ほど私が、ね。亀甲型に神饌をさして頂いて、どっから見ても、どこから見ても立派に盛ってあるように、どっから見ても見れれるように、神饌をさせて頂くことを神様から、お気付けを頂かせていただいたという事をです。申しましたように、私共の信心がね、どこから見ても、見られてもです。なるほど、金光様の御信者さんは違うと。人間も出来られた。おかげも受けられた、家庭も円満。そして、やはり伸びる一族、あの調子でいかれるなら、なるほど、子供さんの時代になっても、孫さんの時代になっても、その子供さんが孫さんが、そのお父さんの信心に着いていきよるんだものね。奥さんが、その信心に着いて行きよるんだもの。もう、いよいよ、親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代に繁盛していくであろうというようなものがです。誰が見ても感じられるようなおかげを持って、どこから見てもという、私はおかげじゃなかろうかと思う。昨夜から頂いております、ね。弱点のない信心だということ。ね。私共の信心には、弱点だらけである。素晴らしい。けれども、あそこを突いたらもう、あの人はペラリじゃん。ね。信心のない人が、例えば、ある人を見る。あんひたちは、そうにゃ金光様、金光様ち、一家中上げて信心しよるばってん、あんた、何時もお金に不自由しよるじゃないの。家ん中は、そげん円満なふうでもないじゃないの。はっはは、ね。そういう風に、例えば、突かれるとですね。それはお話を十分に頂いておりますから、これはこういう訳だ、こういう訳だという事を、話には出来るけれども、それが、ね。如何にもそれがね。言い訳がましゅうなるんです。嫌な事です。私共に体験がある。信心しよっても、こうと言われたときにです、今に見よりなさいとは言うてもです、それを、言い明かしてですね、いうならば、言い訳をしようごとはない。そこに、自分の信心のいまだ弱点を感じさせて頂いて、その弱点がいよいよ強化されて、ね。どの点から見ても、どの点から眺めさせて頂いても、金光大神の道は確かに、こういうおかげが受けられるんだと、家繁盛、子孫繁盛の道を教えると仰るが、確かに、家繁盛、子孫繁盛の道を教えられて、それを習うて、行じておられるに違いはない。だから、あのようなおかげを受けておられるというおかげを頂かなければ駄目です。ね。
今日、お昼過ぎに、御初穂の整理を、なかで一遍致しますから、丁度、末永さんが来ており、三橋先生が朝から御用頂いておりましたから、三人で御用さしていただきながら、今日は、末永さん、私は不思議な事があるがなあち言うて、えっへ、朝も一遍、御初穂の整理をさせていただいた。必ず、月次祭の時には、んー、御神酒料と、お神酒料というのが、お供えをなさいます。だから、その方の、そのお神酒料が、例えば、千円お供えしてあるなら、千円の、例えば、特級酒なら特級酒を一本お供えするようにしております。ところがね、こちらのほうを見て、こちらのほうを見たけれどもね、お神酒料というのが一本もないのである。その、午後からの時に至るまでないのである。何時もお供えをなさる方たちがしちゃないのである。不思議な事も、あればあるもんだ。いつも、少なくとも六、七本はある。多い時には、十五本も二十本もある。お神酒料が。にもかかわらず、今日のお月次祭にはね、その、お神酒料というのが一本もなかった。えへっ、これで、調べてみとくなはれ、全然ない。不思議なことじゃと、私が申しましたら、末永さんが、こういう事を言うんですよ。先生、そら、今日だ、今度だけじゃありませんち。久富勇さん方の宅祭りの時には、一昨年も、去年も、そげんでしたとこう言う。はー、私はそれを聞いてから、思い当たらして頂いた。ね。今日の、この、お月次祭のお供えは、その殆どが勇さんところの、昨日のお宅祭りの、お供えを、また、お供えをされたもので神饌をさせていただいております。ほほー、これは大変な素晴らしいことだ。まあ、不思議といやあ、不思議なことだなあと、言うならばです、合楽のゴヒレイが土井の久富勇さんのお宅に移ってしもうて生まれたんだという、私は感じが致しました。今日は。先生、今度だけじゃありません。去年も一昨年もそげんでしたと、こう言うのです。ね。こらあ、大変なことだなと。合楽のゴヒレイが、ね。そこ、土井の久富勇さんの宅に現れておられる。ね。なるほど、今、久富勇さんは、難儀をしておられます。様々な意味で。それでまあ、よう、これだけのことが出来ると、何時も思われます。けれどもね。今こそ、合楽の、言うならば、さっさと定期預金をなさっておるようなもんだと、私は思うた。ね。今、合楽で頂いているところのおかげというのはです。これは、ね。今朝からも申しましたんですけれども、ね。それこそ、弱点のないのが弱点と思われるほどしにおかげを受けておるです、合楽では。あっは、分かりますか。弱点がないということが、弱点と言わなければならないほどにおかげを頂いておるという事はね。真実性を欠くほどに、ほんなこつじゃあるだろかと。先生は、あげん言いなさるばってん、ほんなこっじゃろかと思うほどしのおかげを、ここでは受けておるということである、全ての点において。ですから、信心のだい、例えば、私共の親戚なんかにも、おー、随分頑固なおじさんどんがおりましたけれどもです。ね。その叔父達がです、もう、総一郎がいう事になら、何にも言うことはないことになってきたんです、最近は。ね。私の信心を認めてきた。えへっ、言うならばです、じゃくて、お前がそげん、のぼせもんのごたって信心しよるばってんが、お前は、家はどげなふうかと、以前は言うておりましたんです。私が、色んな難儀を致しておるときはそうでした。そるきん、おっちゃん、まいっとき、待っとってくれんのと、先祖代々から伝わった、もう、お先祖さんでん何でん、金光様んとに入れちしもちからち言うちから、ばさらかおごられたんです、私は。はっはは、それが、まあだ、貧乏しておる時じゃもんじゃから、そう言われても仕方がなかった。弱点を突かれたわけです。しようがない。それでも、これは私としん、大神宮さんでん何でん、焼きこくってしもうて、今、どげなこつがあるじゃ分からん。もう、荒神様でん何でん、みんな焼いてしもちから。その、一人の、叔母になります人がですね、非常にその、拝み信心をしとるんです。この頃、あーた、あつの息子、孫になりますとが、どっか病気したらしいんです。それが、荒木に住んでおるんです。と、この頃妹が、そん、従兄弟に会ったところが、あらっち言うてから、言うたところが、その、や、子供がね、山本の吉永さん方に入院しとるち言うげなもん。そうら、荒木へんからどうしてやち言うたところが、もう、方角の悪かとこばーっかりだけんで、ここに入院したち言う。はっはは、もう、そういう信心をしとる。自分が拝んで、それが、まあ、教えなさるじゃろたい、仏様がね、そげなふうに。もう、本当に、私共では、笑い話であり、具にもつかないような話を、それを、いわば、迷信を信じておるような信心をしておる人ですから、私共、大神宮様を焼きこくったり、その、おー、荒神様を焼いたり、ご先祖様のご仏壇を全部焼いてしもうたりするけん、やっぱ、腹かくはずです。ほりゃもう、お先祖様が、どげん言うて泣きござるやら分からんち言うちから言う。
先日から、私共では、えー、ばばの三十年の式年祭を致しました。その叔父も叔母もまいりました。私は、有難いなと思ったことはね。家内の、今度、式服が出来てきておる。私の、色んなお供えを頂いておる紋付やら袴やら、叔父やら叔母やらにですね。全部、仕立て下ろしの袴やら、仕立て下ろしの紋付を着せて、ここで、この梅鉢のご紋のついた、あの衣装で、親戚の者が、全部ここで霊祭を頂きました。喜びました。みんな叔父達も叔母達も、ほらもう、先生が手を抜かんと、先生がまだ、はいてもおらんとをはかせてもろちからち言うちから、ね。そしてからもう、その叔母が言いよるとですもん。もうちょいともう、ありがたか、ありがたか、ここの御霊様たちがもう、先祖様が、こう喜びよりなさる姿を拝んだち。もう、涙流して喜びござるばのち言うちから、私言います。それが、やっぱ分かるじゃろ。ついこの頃までは、もう、先祖様が、どげん泣きなさるじゃら分からんち言いよった人が、てんで、こんだ、ありがた涙に変わってござる。(笑い声)ね。ようにです。もう、それは、私の信心、これは、厳しく厳密に言えば、弱点はどこにでん無いはずはないです。けれどもですね、素人じゃもう、ほんなら私がいつも、しげしゃん方に、私のどっからでも良いから、打ち込んで来いといったような事を言うことは、ほんなら、自分自身には、ヒヤッとするようなことが沢山あるんですけれども、人から見ては、もう、弱点が無いほどしの、いうならば、せめ、この、亀甲型ぐらいなおかげは受けておるということなんです。まだ、円満ではない。まん丸ではない。けれども、その亀甲型ぐらいには、どっから見ても素晴らしいと言う、おかげを受けておると言うことなんです。ね。だから、そういうおかげがです。例えば、土井の久富勇さんのところに、本当に移ってしもうて、その定期の期間が、期限がきたときの事を思うただけでも、胸がうずくほどの有難さを、今日は感じました。ご神酒料と言うのが、これほど、月次祭の為に、五本、十本無いことは絶対無いのが、今日に限って一本も無かったんです。私が、午後にまたする間までは。不思議なことがあればあるものだと、ね。それは先生、今年だけのことじゃありません、去年もでした、一昨年もでしたと、こういう事を聞かせて貰うて、なるほど、そうであろう。合楽のゴヒレイが動いておられると私は思うた。その、合楽のゴヒレイが、帰ってきなさった。だからこの、今晩のお月次祭が、言うならば出来たという事になります。ね。清さんが言われるように、ね。確かに、ただ、おかげを受けると言う、そのこつだけではいけない。この頃、今までは、清さんから、聞いた事の無いほどに、赤裸々な話を私にして下さった。こういう事を言うんですね。大体、非常にまきあげらんじゃけん、あげな事は言わんとです。うふ、もう、本当にこのごろは、お金に不自由すると言う意味の事を言うとります。不自由するという事は、困ると言うことじゃないんです。ね。いうならば、必要なだけは、必要に応じて頂いておりますけれども、神様に、お供えをするほどしの余裕を頂いておりませんとこう言う。それも素晴らしいですね。それがもう、その、必要なだけは、石井清さんの信心なりではあるけれども、神様はきちっと下さる。けれども、神様に御用をさせていただくほどしの余裕を頂いておりません。それは神様がお見通しですから、お供えせんでも、一つも引っ掛かりません。そりゃ、そうどこじゃない。私も思います。ところがあーた、清さんが最近ですね。これだけではいけないと。信心とは、本気で有り難うならせて頂く。いわゆる、今日、清さんがお話しになった、生神への道をたどらなければいけない。生神へのいわば、道を辿るという事は、どのような事かというとです。ね。円満具足である。ね。いわゆる、久保山さんたち親子がです。あの子供達に至るまでがです。お祓いを致さして頂くときに、はーっと、平身低頭をしておるような姿。どのような場合であっても、お取り払いを頂いて、有難いと言うような信心。しかも、私だけではなくて、家族中のものが、そう言う信心をさして貰う。ね。お父さんがあんた、ほんな、毎日、合楽にばっかり参るばってん、どうの。こら、屋根ば、屋根葺き替えをするとに、あの日だけは、あし目がだじゃぶり降った。これは、久富繁雄さんのところ、ふっふ、もう、その日に限って、もう、それが、屋根ば全部とってしもうちあったげな。それであーたもう、庭ん中、座敷の中を谷のごとして流れたげな。ところがあーた、その、まいっちょ、こまか方の部屋に、娘が使いよるほうの部屋を忘れちゃったげな。そこにもう、嫁入り前の娘ですけん、もう、色々、段々もう準備が出来たから、色んなその、良い訪問着やらが、この頃から出来よったんです。そりがあーた、もう、しぼ、もう濡れっしもうとる訳たい。それも、濡れるだけなら良かばってん、あーた、屋根葺き、屋根、あの、屋根の赤い醤油のごたる汁が、落ちかかっとるもんですきん、もう、目も当てられんのです。ね。そん時に、例えば、ほんなら、息子さん達が、嫁ご達がです。お父さん、あんたが合楽、合楽ち言うばってん、天地が自由になると言う神様をいただいとるち言うちから、あんた、合楽の大祭の時だけ、お天気の良かったっちゃ、家の屋根換えの時にはあんた、ほんなどうするのち言われたっちゃ、しよんなかばってん、子供達が、そうは申しませんでしたと言われた。あくる日のお届けに来てから。娘が晩に、夕方、勤めに出とりなさるのが帰ってまいりました時に、私は、娘の前に、今日は俺の、とうほねっことしてから、こらえちくれと言うて、娘の前にお詫びをしたと言うておられます。ね。へっへ、これは、まあ、言うならば、いわば、お取り払い、お祓いを頂いて、有難いと言う内容は分かりませんよ。私は、心の中は知らんから。けれども、じゃあなかじゃろかと思うんです。ね。しかもそれが、どのような事があってもです。ね。せっかく作った、新しい着物がです。醤油で煮しめたような汁がかかってもです。ね。お取り払いを頂いて有難いと言うような信心を、出来んでも、目指さして頂くと言うことが生神への道なのです。出来なくても。ね。そげーんあんた、生神様に、私は一生かかったっちゃ出来はせんと思うんです。ばってん、私は、やはり、そこを目指さして頂いた。ね。そう言うところに焦点をおいての信心。そう言う信心をです、ね。今朝からは。ね。おかげを頂くから、いわば、難儀だから、苦しいから、お参りをしておると言うのではなくて、有難いから、お参りをしておるんだ、お礼、お礼がつかえておるから、お月次祭には、お礼参拝さしてもらわねければと言うような信心がです。ね。眠いとか、辛いとか、寒いといったようなものも、克服できるほどしの有難さ。ね。と言うほどしの有難さというものが、身に着いてくる信心。
若先生が、親教会で修行中に、ある朝、親先生がおられん時に、御祈念して、御理解をみんなに聞いてもらった。そん時にその、信心とは眠たいものだち言うて、開口一番言うたち。で、それを渕上先生が聞いてからもう、今日は、大坪先生、あんたげん勝彦さんが、こんなこと言うたばのち。金光様の信心とは眠たいものじだものと言うたち。そしたら、横におった先生が、素晴らしかち。素晴らしかち言うちから、褒めたち。あ、素晴らしい。金光様の信心とは、こう言う、本当に眠たいものだを、一遍通らなければ、金光様のご信心は、本当は分からん。と言うて、金光様の信心させて頂いておれば眠たいとか、苦しいとかと、ね。さあ、何時になったら、ここから抜け出られるじゃろかといったようなものではなくて。その、眠たいけれども、苦しいけれども、それ以上の有難いものが育っていくと。それ以上のものが、いただけておると言うことが有難いと言う信心。そう言う信心を、私は生神への道だと思うのです。ね。清さんの、え、石井清さんの心の飛躍、ね。ただ、不足を言わんとか、腹を立てんとかと言うだけではいけんのだ。ね。いわゆる、親先生がいつも言われる。おかげは和賀心にありと。和らぎ喜ぶ。和らいどくだけではいけんのだ、腹の立つようなことを言われたから、それを、じっとこらえたり、腹の底で、はは、ここば、辛抱すりゃおかげを頂かれるという事を確信しておっても、それだけではいけんのだ。和らいだ心だけではいかんのだ。和らぎ、和、それから、賀、ね。賀の心と言うのは、喜びの心。喜びの心が伴わなければいけないのだ、ね。合楽におかげを頂きますのは、その喜びに触れることが出来る。合楽におかげを頂けば、親先生の、そう言う御徳の中に浸ることができる。と言うように、清さんは、先ほど、おー、申しておられますようにです。ね。そういう信心を、私共が、目指さして頂くという事がです。ね。段々、私共の、弱点の無い信心へと進んでいくことが出来る。そこには、いわば、言いようの無いほどのおかげ。どこから見ても、なるほどおかげと言わなければおられないほどしのおかげ。そういうおかげが、いただけてくる事をです。いうならば、合楽の、只今頂いておる、弱点の無いことが弱点だと言われるほどに、ね。あまりに素晴らしいことですから、真実性を欠くほどに素晴らしいその、おかげがです。皆さんの家庭の中にいただけれるようになるおかげを頂くためにです。ね。合楽のゴヒレイが、みなさんの家庭の中に、移動していくようなおかげを頂くためにです。ね。どこから見てもという、まあ、せめて、亀甲型のね、今日の神饌ではないですけれども、そういうおかげを頂かせてもらう。そこに、信心の楽しみ、喜び、ね。または、苦しさも、味あわせて頂けれるおかげを頂かせていただいたら、それが、生神への道であり、ね。御道の信心が、なるほど、おー、金光様のご信心は生神様になる稽古だと言われておる。いわゆる、どちらへ転がしても、どちらへ転がしても、どっちから見ても、どっちから見ても、ね。喜びしか出てこないというのである。ね。ですから、例えば、ね。淳ちゃんと米子ちゃんが、お払いを受けるときに、はーっと、平身して低頭しておるように、子供達に至るまで、どのようなお祓いを受けるような場合でも、平身低頭して受けられるような信心が家庭の中に、いよいよ出来て行くような願いを持たなければならんと言うことなんであります。どうぞ。